感動や愛はどこからくるのか?
できるできないではなく
なにを言ったか言わなかったかではなく
ただただ目の前のいのちの存在に対し畏敬の念と敬意を持ち、愛しいなにかを感じる。
その感覚とはいったい何か?
言葉にならない説明できないぐらいでちょうどよく、
その不思議さを信じ楽しむ心の状態。
子どもたちにとって馬とはなにか?
馬にとって子どもたちとは何か?
人類はどこに向かうのか?
命とは何か?
子どもの生きる力の強さを、輝きを、
言葉や行為ではなく、感覚として絶対的に信じられる。
僕たちもここまでたどり着きました。
たどり着かせてもらいました。
勇気をテーマに言葉にならない感覚を信じ続けてきて、
勇気づけられるのは子どもたちであり、
やっぱり僕たちである、という偉大な確信に包まれています。
さぁ、話を現場に戻します。
これまで8回馬に乗らずに、
恐怖に立ち向かったり、
やさしさに包まれたり、
知らない感情をもらったり、
生物同士のいのちの交流をしてきた彼らは、
とんでもなく自然に馬に乗り、共に歩いていました。
それを見ていて、あまりのあっけなさに感動をしませんでした。
しばらくしてから、この感動の無さは当たり前のことなのだと気づきます。
すごいね、やったね、できるじゃん!
とかではなく、
信じているからこそ、あたりまえだからこそ、
感動しないことに感動します。
そうです。
当たり前のことなのです。
心の底から彼らの生きる力を信じ、見守ってきました。
こうなる未来を信じていました。
そして、
それは同時に、僕らも信じる勇気をもらってきたということです。
いのちを信じる勇気、
今の時代の人類が持つべきものはこれです。
大人を子どもをとか、
先生を社員をとかではなく、
人を馬をでもなく、
いのちを信じる勇気。
その後も、馬の後ろ足に群がって、
お腹の下に潜りながら、明るく楽しく馬の爪の泥を取る子どもたちと、
温かくたたずむ馬の姿に、一切の不安も感じずに、安心して見ている自分が嬉しかったです。
繰り返しますが、
今の時代に必要なのは、これです。
野性とは己を含んだ宇宙の不思議さを喜ぶことであり、
謳歌するいのちの細やかさに感動することです。
時代は変わる。
いのちの時代の到来です。
心を追えば追うほど、
いのちの時代がやってきます。